前回に引き続き(現)橋下市長について、
今しばらくお話ししたいと思います。
そもそも、なぜ私が彼のシンパになったか?
その理由については諸々ありますが、
もっとも尊敬に値するファクターは、
その明確なビジョンと力強い実行力です。
10年後、20年後、その先の未来を見据え、
子供たちが夢や希望を持てる大阪の街づくりを目指すには、
システム自体の刷新が必要で、そこから誕生してきたのが大阪都構想。
今回の住民投票で現役世代が賛成多数を占めたことからもわかるよう、
未来志向の素晴らしいビジョンであることは明らかです。
彼は大阪府知事に就任して以来、そのようなビジョンを常に持ち続け、
時に強引な手段を使わざるをえなかったこともありましたが、
それを着々と実現させていった実行力には目を見張りました。
しかも利益度外視、自らの収入を削る、
まさに身を切るスタンスでここまで働いてくれる市長なんて、
世界中探しても滅多にいるものではありません。
大阪在住の高齢者の方は、なぜ自分自身ではなく、
子供や孫の世代のことを優先して考えられなかったのか?
ここまで頑張った橋下市長に「No」をつきつけたのか?
私には理解できないし、本当に残念でなりません。
一方、私自身も「女性の自立」というテーマで、
社内教育を中心に信念を持って、活動を続けてきたつもりでしたが、
カタチとして残るものが一体どれだけあるのか?
自分のビジョンが果たして正しかったのか?
そんなことを感じ、前回お話した絶望にさいなまれていったのです。
今は亡き作家、安部公房のインタビューで
「僕はなぜ書くのか、何度も自問自答しました。
たぶん、絶望もまた希望の一形式だからでしょう」
というくだりがあります。
安倍さんならではの哲学的な表現ですが、
恐らく、書き続けるという行為自体に意味があり、
その行為を止めてしまえば、絶望は絶望のまま捨て置かれる。
書き続けていれば、絶望が希望の一形式であることが見えてくる、
というような解釈ができるのでは…。
ならば、私も安部さんのスタンスにならって、
活動をし続けることでしか、絶望から脱出する道はないようです。
孤独感や徒労感をどれだけ感じようが、
自己満足であろうが、とにかく行為を続けること。
その過程で希望が芽生えてくるのかもしれません。
もし、新しい萌芽が見えてくることがあれば…、
またの機会に、改めてお話しさせていただきます。